一世

 己が彼の家へ忍び込もうと思つて、彼の背をつけて行つたのは、午後の五時頃だつた。彼は電車から降る時思ひなしか少し身震したやうだつた。そのくせ、もちくわしかなんか買つて包みにして小脇へ抱へた。己は彼の小腹を突ついてやりたかつた。
 彼はしばらく歩いた。己には彼の歩き工合がどうもまどろつこしくてならなかつた。洋品店と写真屋との間から上り坂になつて、四間ぐらゐな路幅になつてゐる。彼も己もそこを登りかけた。そしてそこを十五六間も進むと、左手はそのまま急勾配の坂で、右の方は平坦な路になる。その二跨のところにポリスボツクスがたつてゐる。その筋向のところに時計店がある。彼はこの時計店の路次を這入つた。隣は何をするところか己もうつかりしてゐるので解らなかつた。
 彼は一家四人を養つてゐるのだつた。つまり──彼のおふくろだらう、年の寄つたお婆さんは。それに姪が三人もゐた。多分妹たちではなからう。
 とにかく彼は若い官吏だつた。若いと言つても三十一である。某省の書記みたいな為事をこつこつしつづけてゐる。ペンを引いて帳簿の面をよごしてゐた。まだ死んでもいゝ歳ではなかつたが、彼はこの三年以来始終「おれは死にたい!」と口癖のやうに腹のなかで思つてゐた。その願望が今朝の明方にはかなへられる譯だ。
 前置きはどうでもいいが、己は彼が「おれは死にたい!」といふ腹のなかの言葉をこの三年来耳の垢のなかで聞いてゐた。己は彼の願望が最初は嘘だらうとたかをくくつてゐたら、どうしてそれが嘘どころか、心からの叫びであるといふことが解つた。それもだんだんに解つて来るやうになつたのだ。といふのは、やはり彼とても人である以上、いろいろの疑惑や煩悶などに突きあたつてかなり藻掻いてゐた。そのたびに心が動く。心が動けば考へが変る。しかしいつの間か、彼の言ふ「おれは死にたい!」といふ言葉が腹のなかで芽を萌え出して、それが茗荷のやうに溌剌と伸びてゐる。そのうちに彼の両手ではその芽を摘みきれなくなつた。いづれにしても、彼がこんな思想に捉へられたのは、ダアヰン翁にあるらしい。彼のどの網目に当嵌るのかは知らないが、ひとかどの偉い人物になれないくらゐなら生きてゐる価値は更にない。かう思ひ込んだらしい。彼は何でもかなり皮相な読書力の判断から、自分の犠牲的就職を気に病んでの結果らしい。最初彼は銀行家になる心組らしかつたのだ。それが思ふ様にならないので、よくある気ふさぎにかかつたのだ。そして彼は青年らしい元気などはどこへやら置き忘れてしまつた。結局、「おれは死にたい!」といふところで三年間も逡巡して、たうとう最後の決心をしたのはころごろであつた。己は少し考へてみると残酷のやうではあつたが、彼を一気呵成に死なしてみたくなつた。これ以上考へさせて置くことは可哀さうでもあつたから。
 いよいよ己の役目になるのだ。──夕飯後、彼は腹痛を訴へた。そして彼はすぐ牀へ就いた。己は彼の牀のなかへ一緒にもぐりこんだ。どうも寝苦しさうだ。アスピリン三服ぐらゐの発熱になつた。囈言を言ふ。己はじつとして様子を窺つてゐた。機会を捉へることはかなり骨の折れることだ。
 熱のなかで、今彼の脳を掻き廻してゐるものは鼠のことだ。ふと思ひ出すとその考へは影を消さない。彼は今までに百に近い鼠を殺してゐる。或時は器械で、棒切れで、箒で、また或場合は錆剣で、鼠を切つたり突いたり、これ等は一息に絶息させたのだからいいのだが、少し残酷になると、器械のなかで捕へられたやつを紐でくくり、眼球へ箸を突き通し、口中へ火箸を貫くといつた具合だつた。まづ己は鼠に化けて、彼の心眼に見えるやうにしてやつた。その間に医師が来診して、頭を傾ける、煙草を飲む、茶をちよつと唇へふれてみる、急性の腸カタルだと判断を下す。彼は自分の判断に自信がない。そして人間を殺すのだなと可哀さうに思ふ。家中は伸びたり縮んだり、小さくもなり大きくもなるほどの大騒動だ。おふくろは御神燈を灯して腰を据ゑたまま動かない。──己は墨染の衣を纏ひ鼠の姿で彼の目の前に明滅する。何と骨の折れることではないか。己だつて彼以上の熱にうなされてゐる。無常に見えるのは己だ。かう世間では考へて口々に己を呪ふ。しかし死者になつてみなければ己の本体は解りはしないのだ。今の場合だつてさうだ。己は彼の息を引きとる三分前になつて、小さいながらも真白な耀く球になつて彼の体中を馳け廻り、その苦悩をだんだんと減じてやつた。
 無感覚状態になつたのをみすまして、己は彼の家を飛び出した。ところが例の露次口のところで、自転車を引いた中年男に出会つた。彼は己の体へ前輪をいやといふほど突きあてて知らぬ顔だ。──朝の六時だ、仕方もあるまい。

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