一世

戀愛

 己はいま不思議な追憶が湧いてゐる。己はそのことを語るのにどんな言葉をもつてすればいいのか非常に迷ふてゐる。しかし己はたしかにそれを知つてゐる。夢幻的な噺だといつて咎めるかも知れない。しかし己は話さうと決心した。その戀愛について──

 冷風の波立ちはじめた或夏の夕方だつた。運転手台に白衣の令嬢が乗つてゐた。その自動車は疾走してゐた。番号は 7754 と読めた。元気な青年は町角まで馳けた。一分間経過した。彼はセフテイゾーンに立つて、タクシーを呼んだ。前車と後車とは半丁ぐらゐ隔つてゐる。運転手へ声をかけて励した。
「早く、早く、7754 を見失ふな」
 橋向ふの石垣に沿ふて、ドオムが宵闇にぼんやり浮いて見える。彼の車は橋の上を一直線に進んだ。前車は橋を渡りきつてゐた。二車は相従いで小路へ吸はれた。ドオムの前面が目前へ聳えて拡がつた。ドオムはロシア旧教の教会だつた。教会の小門の前で、白衣の令嬢の自動車はぴつたり停つた。彼の車もつゞいて停つた。彼は案外容易に追ひついたのであつけなく感じた。彼は車窓から彼女の姿を目送した。青年は悦びそのもののやうな態度で窓ガラスへ額を打ちつけた。彼女は教会の入口の三つ目の石段の上でヴエルをかけた。足の運びは心持ふるへて見えた。腰の線が薄闇の空気を白く揺がした。彼女は消えるやうに、教会のなかへ這入つた。
 青年はぢつとしてゐられない気持になりはじめてゐた。彼は車から出て靴音かるく石段を登つた。彼は今宵の蒸暑さなどは忘れて、しばらくぢつとしてゐた。ひつそりとした寂寥のうちに、何となく悦びを誘ふやうな賑かさ匂ふてゐた。彼は戦きながらも、教会のなかへ滑り込んだ。
 高い円天井は渺茫とした淡青色のやうに耀いてゐた。そしてその内部全体は、黄金と銀と宝石と碧竝色とで飾られてあつた。蒼ざめすぎた白薔薇のやうだ。正面祭壇の前には、十二人の黒衣の僧侶が膝づいて黙祷してゐた。礼拝堂のなかにはほのぐらい神秘な蝋燭がゆらゆら揺れてゐた。この愛撫するやうな明りは、受難者の像を浮彫した数十本の円柱の表へ伸び上り這ひまつはつてゐた。白衣の令嬢は、この柱の一本の礎のもとに踞り、マリアの像の前でうちぶしてゐた。礼拝堂はそれ自身で溜息を吐いてゐるやうに顫へて見えた。青年はひとりでに心が小さく縮んで行きさうに感じながらも、半ば畏る畏る周囲を見廻してゐた。しかも白衣の令嬢から眼を離しはしなかつた。彼女の躯は人形のやうに動かなかつた。鐘楼の鐘が鳴つた。僧侶たちは飛び立つ鳥のやうに廻廊の方へ消えてしまつた。それからしばらくすると、彼女は少しづつ躯を動かし、上半身が直立するまでは十数分かかつた。彼女はもう一度頭を下げてつつましやかに立ち上がつた。彼女の白衣姿は四方から射す明りに包まれた。彼女をよくみて見ようと明りがその首を伸べたやうだ。そして十以上もの彼女自身の影は、風車のやうにちらちら動いて、彼女の歩む足もとにぢやれついてゐた。彼女は朝の鶏のやうに歩きはじめた。生き/\(注・繰返し記号)した彼女の眼はヴエルをはづして微笑んだ。彼女は彼を見返して、車を出さうともしなかつた。彼は少し頭を垂れて彼女の頬を見てゐた。──己がいつも若い人たちに呼び寄せられるのはこんな時だ。己は急いで二人のために手を取り合つてやつた。──二人は一つ車に乗つてステーシヨンへ馳けた。三日間といふものは彼等は若い燕のやうにそこここと飛び廻つた。そして彼等は行くさきざきですぐその土地に飽いた。海岸地は若い男女の競市場だつた。山の温泉は彼等にとつては餘りに老人ぶつて見えた。ただ野を行き、山を越え、河を渡る時だけ彼等の胸は踊り合つた。彼等は元気に喋り合つた。
 そして四日目の夕方に彼等は再び都に現はれてゐた。彼等は郊外のプールへ自動車を飛ばした。そのプールは自然の沼に改良を加へ、遊泳場としての設備が施してあつた。
 プールの西側の森の上へ月が昇つた。プールは月光でおししづめられてゐた。青年と女とは海水着で台の上へ並んで、時々喋つては水の上を見てゐた。彼女は最初にシヨウビングした水の上へ浮いた。彼女の頭は露に濡れた花のやうだつた。彼は手を打つて彼女を褒めた。彼女は彼を促した。彼は少し躊躇した、が水のなかへザンブリと飛び込んだ。彼女の笑ひ声が聞えた。彼は一度水面へ顔を浮べた。彼女は彼に追ふてこいと合図をしてゐた。彼は大きく両足で水中に圏を描いた。彼はクランクしたと思つた、その時は遅かつた。彼は死んだ蛙のやうに水中深く陥てしまつた。彼は目を見開いて周囲を見廻した。一面の青色だつた。彼は思はずぐすぐすぐすつと笑つた。気泡が無数に浮き上つて、その一つ一つへ月の面が、それぞれ大きく小さく映つた。彼はぢつといつまでもそれを見つづけてゐた。いつの間にか彼の躯は泥深い底へ吸ひ寄せられてゐた。
 彼はもう笑はなかつた。ただ彼の頭のなかでは、7754──7754 を繰返してゐた。そしてこの数字を倒にして読むと、どうしても、HELL──HELL とより外は読めなかつた。そして遂にそれは HELL といふ一語に限られてしまつた。彼はもう考へなかつた。──

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