一世

誕生

 ビールをひつかけるやら、カクテールを飲むやらむちやな飲方をしてぐつたり首のそりかへるほど醉うてしまつた。あの家の出産を扱ひに行くまでには大分時間が遅れてしまつた。それといふのも己にちよいと魔がさしたのが因になる。飲料水でもちよいと飲んでやらうと思つて、途中下車した、賑やかな夜の町だ。いろいろな電燈は空間に所せまいまでぎつしり耀いてゐた。人々は汗ばんだ顔を微笑ませてゐる。糶売人の声は町中に轟いて人々の歩調を鈍らせてゐる。ポリスボツクスの裏通りには、神の信者たちが天を仰いで罪を訴へてゐる。掏摸が刑事の扮装をして往行してゐる。とにかく種々雑多の人間が左と右との二筋に流れ合つてゐる。その流を堰止めてゐる巌礁はいはずとも知れる糶売場とか白銅五銭を投ずれば見せてくれる月世界探険の望遠鏡屋とかに限られてゐる。己が手にかけた者の顔が可成見える。無論向ふで己れを知つてゐる筈もない。いや、彼等は最早出産当時のことなどはてんから忘れてゐる。そこへ行くと詩人なんていふ者は少しは偉い。世間では彼等をみくびつてゐるやうだが、己の目は少しは俗眼とは違ふ。時折は己を思ひ出して、己を讃美するにしろ呪ふにしろとにかく己の功績を忘れはしない。可愛くないこともない者どもだ。──
 とあるカフエで己がアイスクリームをつついて戸口を出ようとする、その出会ひがしらに、己はひよつくり旧友と遭つたのだ。
「やあ」
 彼は己の手をぎゆつと握つて、物を言はずにまたそのなかへ引きずり込んだ。彼は跳び上がつて、手を打つて、足踏みをしてゐる。にこにこしたその顔は己の顔をまで笑はしてしまふ。彼は己の同僚だ。二人はしばらく会はなかつた。聞けば半年ほど船中で暮してゐたといふ。
 己たちは大へん愉快になつて、二三度はテーブルを突飛ばすやうなふざけかたもした。アルコールは二人をやたらに醉はしてしまつた。己たちはでたらめに牧歌を唄ひつゞけてゐた。己はそれでも時間を気にした。さうするたびに、彼は人間が少しは誕生の記憶を深くするために、苦しむだけ苦しめてやれ、人間はずるいものだ。十年前のことも一日前のことも忘れてしまつて、前方ばかり見たがる悪い癖がある。などと言つて、己を引きとめた。こんな時己たちの世界では聞かれないやうなレコードでも、スタンドの方から漏れてくるものなら、己たちはぐつたり首をへし折つて、口から泡を吹いて唸つたものだ。そして己たちは顔を見合はす度に、絶えず「やあ」といふことを言ひ合ふやうににこにこ笑ひ合つた。そのつどカツプやグラスは互に触れ合ひ、飲めなくなつてゐるにも拘らず唇へはおしつけて、器物をガタリと投げ出すのだつた。二人は懶くなつて黙り込んだ。周囲の喧噪だけが、水の流れのやうに己たちの身辺をするする駛り巡つてゐる。己は立たうにももう腰が伸びない。相手は飲み草臥れ、喋り疲れて眠入つたらしい。己にしても瞼が甘美に重くて、開けやうにも開けられない。己の心臓のなかでは、づきんづきんとセコンドが打ちつづけてゐる。気は早る。おつつけ十二時に間もあるまい。
 どれほどそこに己はさうしてゐたか解らないが、同輩を都合よく頼み込んで、己だけは戸外へ出た。町はひつそりしてゐた。掃除人夫が山と積んだ紙屑の山がニ三ヶ所に白く浮き上がつて見える。己は蹌跟いて歩いた。タクシーを呼んだ。一瀉千里とはこんな疾走を言ふのだらう。タイヤーは空中を滑る方が多い。己はどんなに醉ふても頭だけは乱したくないと思つてゐるのでぢつと歯を食ひしばつてゐた。
 己は途方もないところで停車を命じた。運転手は己の言つたことが気まぐれではあるまいかと怪しげな表情をした。己は或橋畔に佇んで、真黒な水面を眺めてゐた。運転手が後ろに直立してゐる。彼は己の家来ではないのだ。己は手を振つて帰れと促した。彼はエンヂンを大きくふるはして帰路についた。己は思ひ切り大きく呼吸をして歩みはじめた。己はもはや醉漢ではない、大事な役目を果さなければならない。路を急いだ。足は少しふらふらして調子がはづれる。
 己は少し気まり悪くないこともないので、そーつとその家へ這入つた。医者と産婆は産婦以上に脳を痛めてゐるらしい。己は臆病になつて何もかにもこつそりこつそりと取り運んだ。己がほつと溜息を吐いて、五分も経つと、一家は愁眉をひらいた。赤子の大きな泣声は鼻孔へ飛びこんで己をくしやみさせてしまつた。瞬間にしてげつそり痩せた産婦は別間にむつつりしてゐる良人を呼びたてた。すでに為事は己にすんだ。己は帰るのだ。方々から苦情が出さうな気がする。ちよつとしたみちくさから己は無性にせわしくなることになつた。暁までに残り三軒の出産をすまさなければならないのだ。

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